コスプレで”ジャニヲタ”してますけどね
やっほーー!!!わたし、いずえ★
某都市圏で働く20代後半社会人。
趣味はショッピング、野球観戦、温泉巡りで
今最近ハマってるドラマは「ゆとりですが、何か」かな?
そう、いたって普通の女の子
でもね、ここだけの話
私、ジャニヲタなの!
まっ、ジャニヲタといえどもコスプレみたいなもんだけどね♪
って言ってみたい。”一般人” ”OL” ”20代女性”としての「わたし」を私という人間のベースにして、おまけ感覚で「ジャニヲタ」を名乗りたい・・・・
※今回のタイトルは北条かやさんのブログタイトル「コスプレで女やってますけど」、先日twitterで話題になった「一般人のコスプレの仕方」を参考にさせて頂きました。
控え目に言っても15年、厳密にいえば20年弱ジャニーズと共に過ごしてきた私にとってみたらジャニーズのない人生なんて全く想像が出来ないわけで。故にジャニヲタじゃない生き方なんて全く分からなくて。
この知らぬ間に積み重ねてしまった長い長いジャニヲタ歴は時にちょっとした誇り*1であり、時にコンプレックスになることもある。
数年前から「私からジャニーズを取ったら何が残るだろうか、いや何も残らない」という漠然とした虚無感を抱くようになった。
そして「”ジャニヲタだからダメなんだ”とは言わせない」という不思議なプライドを盾に、”いかに一般人に近づけるか” ”いかに一般人ぽく振る舞えるか”を人生の裏テーマとし日々過ごすようになった。
SNSで知り合った方と実際にお会いしたとき、現実社会で出会った方にジャニヲタ(しかもバック担であること)をカミングアウトしたとき*2の
「全然ジャニヲタに見えない」
「むしろ、ジャニーズ全然興味なさそう」
「いずえちゃんがジャニヲタなの信じられない」
「(SNS上の)イメージと全然違う」
といった反応に毎回毎回嬉しさのあまり心の奥底でガッツポーズしているくらい。
気持ち悪いジャニヲタの私は”一般人ぽい私”を形成することに楽しみを見出している。
ええ、コスプレで一般人してますけど、何か?
「もう一人のボク」の必要性
突然風ぽんの声が脳裏を横切ったとしたら、きっとあなたと私は同世代ですね★
先に述べた「ジャニヲタの私」と「コスプレによって形成された一般人としての私」。
どちらが自分にとっての正であろうと、"ジャニヲタ"である私に冷静にツッコミを入れられる"一般人としての私"という冷静な第三者の目が必要だということにここ数年、やっと気付いた。
人の振り見て我が振り直せ・・・ともいうべきか、先日の東京の事件報道とそれに関する様々な意見を通して改めて自分の在り方を考えようという気になった。
※一般人としての私か、ジャニヲタとしての私、どちらがコスプレかという表現は一旦置いておいて、ここからは大多数の人に当てはまるであろう
一般人の私(本物)/ジャニヲタドルヲタの私(コスプレ)
という概念で話を進めていく。
コスプレでアイドルしてる人と、コスプレでドルヲタしてる人
先日起こった女子大生刺傷事件から”仕事としてしている/してもらったこと”という意識を持たなきゃいけないなと改めて感じた。
これはアイドルの応援に限った話ではなく、日常的に、自らが「客」・「受け手」となるとなる場面で常に頭においておかなければならない概念だと思う。
”解釈の仕方”や”勘違い”によって私たちはときに底なしの「幸福感」を得ている。
一番身近なテーマを挙げると「ファンサ」がそれに当たるわけだが。
「○○くんの行為が私(だけ)に向いている」と思った途端
ある一つの”行為”は”好意”と勝手に置き換えられてしまう。
しかし、そこで味をしめてしまったり欲を出してしまいそうになったとき「厳しい第三者の目」とも呼べる「もう一人のボク」にツッコミを入れてもらうべきだ。
これは特定の誰かに向けた話ではなくて、私自信に言い聞かせる意味で書いている。
「あれは私に向けられた”好意”じゃない、仕事としての”行為”だ」と。
私たちがコスプレで"オタク"をしているのと同じように、極端に言えば与える側もコスプレで"アイドル"をしている。
いわば"コスプレ"した世界の中だけのやりとりなのである。
アイドルの「コンサート会場を出たら他人です」発言は夢がないとも言われるが、それは本来誰もが抱いていなきゃいけない本質的な概念なのだ。
ところで事件発生当初、各メディアは水を得た魚のように生き生きとしながらあの事件を「地下アイドルとキチガイヲタの間で起こった猟奇的事件」として扱った。
(しばらくすると、被害者に係る冠詞はアイドル→シンガーソングライター→女子大生へと推移したが。)
昔も昔で、アイドルがファンに硫酸をかけられただとかファンレにカミソリの刃がついていて・・・といった事件はあったようだし、今でいえばヤラカシも今回の事件の数歩手前にいるくらいほとんど変わらない存在だと思うし。
アイドルとファンの間の事件というものは今後も時代に迎合しながら姿形アプローチの仕方を変えて存在し続けるとは思う。
特に現代社会はSNSの発達によりものすごくたくさんの情報が発信されている。
公式に発信されたものだけでなく、非公式(一般人発信)の情報も溢れかえっていて、ちょっとした手を使えば個人情報といったあたりの情報まで入手できてしまう。
情報を得て、時に身近にいる現実世界で関わりがある人以上に「遠くの相手」の情報を得、知ることにより感覚は麻痺してしまう。
↑情報で塗り固められた"私の良く知ってる××くん"の図
そして、たくさんの情報によって相手のことを"よく知っている"と思い込んでしまい
うちわを介在してファンサをもらったとき、たった一瞬の出来事ごときで、
心身共に遠くにいるはずの、違うフィールドにいるはずの相手と通じ合ったと錯覚して、ものすごく近いものと捉えてしまうのだ。
でもそれは「仕事の産物」だということを「もう一人のボク」という冷静なものさしを通して把握していかなきゃいけない。
「これは、私にむけられた好意じゃない。うちわにむけられた仕事としての行為だ」と。
それは一般人としての私にではなく、ジャニヲタ(というコスプレ)の私が手にしたものだと。
そしてもっといえば、その行為をしてくれた相手こそ"コスプレ"でアイドルしてる人なのだから。
(↑アイドルとドルヲタの理想的な距離感案)
触れたら消えてく
妄想の花君はアイドル
遠距離ポスター近くにいるのに
君は切ないほど手が届かない
心身共にこれくらいの距離感が一番適度で適当。
そして私自身今後もモンペ"芸"、リアちゃん"芸"と自覚し、言える自分でありたい。自分で自分に「wwww」と草生やせるくらいの。
形から入るタイプの私はこの記事を
ミモレ丈スカートにトップス前IN後ろOUTの”抜け感”コーデを身に纏い
名古屋市内の某STARBACKS COFEEで
ストロベリーデライトフラペチーノ、トールサイズ、ホイップ多め、チョコチップカスタマイズ(マグカップに氷なしのお水もください)片手に書いている。
我ながら「ただの一般人20代後半社会人ぶる」には申し分ない装備だと確信している。
散々また今日も長々と書き連ねたけど、結局言いたいことは
「えっ?コスプレでジャニヲタしてますけど、何か?」
(この記事を書くにあたって脳内棚卸ししたらこんなことになりましたとさ)