No doubt!!!!!

関西の”8人の小人”と紡ぐFunkyな日々

「半径5メートルの世界」と「久保みねヒャダこじらせナイト」

「最近の若者は半径5メートルの世界にしか興味がない」

 

という言葉を初めて聞いたとき

20代なりたて、20代という10年間を『勢いも元気もある、何でもできる輝かしい10年間』と捉え一人で【未来に乾杯ⓒ淳弥】していた私は

「日本の若者ってそんなに視野が狭いの?人生つまんなくない?」

「少なくとも私は違う。これから就職して社会に出る私が、半径5メーターで収まるわけがない」

と思っていた。

 

ちょうど就職活動に向けたインターンも始まり、ちょっと知識が増えて、ちょっと世の中分かった気になっていて。

社会人に異様な憧れを持っていて。

 

「半径5メートル」を少しだけバカにしていた。

 

あれから時は流れ、大学を卒業し、社会に出て、公私共に様々なことを経験し、

20代というステージから退く準備をしなければならない年齢に突入した。

 

「仕事を通して、ヒト・モノ・コト様々なものに触れ、広い世界で生きていきたい」

とかいうくっそさぶい”固定ツイート”を胸に飛び込んだ「社会人」というステージ。

 

”若手”と呼んでもらえないポジションに来た今、ある程度「仕事を通して」という文言が通用するようになった今、

自分を俯瞰してみたら小バカにしていた「半径5メートル」どころかたかだか「半径数十センチ」の世界でしか生きていないことに気づく。

 

あれだけ憧れを抱いていた「社会人」という生活。

今となっては、何の特別な感情もない、ただのルーティンでしかなくなってしまった。

「好き」の反対を「無関心」と仮定したとき、「仕事は好きか」と聞かれたら、間違いなく「無関心」と答えるくらい。今となっては「特筆することもない」ものとなってしまった。

 

物事への興味の範囲もどんどん狭まってしまった。

ジャニヲタしてるおかげでまだ多少は視野を広く保てているとは思うが、

それ以外に興味があることなんて、検索履歴を見てみても「服・化粧・食事・テレビ」くらいで、本当に「自分の身の回り」のことにしか興味を持てていなくて

半径を使うまでもない、【狭い狭い世界で1日1日を消費している】ことを痛感する。

 

 

 

数年前【冴えない自分にしょんぼりする度、Facebookを開いて知人の生活の1ショッを見て「私はなんてくだらない人生を送っているんだろう」と絶望する・・・】というドMな遊びをしていた。

 

「内向的・引きこもり体質・ケチ・オタク・コミュ障」な私と相反する「リア充」という世界。

 

「1つ1つの出会いに感謝!」「思い出は宝物」「みんなと一緒にいられてハッピー!」なこのご時世で、SNSに投稿できるような・知人に発信できるような人生を送っていない自分に嫌気が差し、生きづらさを感じていた節もあった。

 

そんなときに「久保みねヒャダこじらせナイト」に出会った。

 

きっかけは「水球ヤンキース」の番宣(?)で千葉君が出演したから(だったような気がする)。

 

正直初見の回のことは全く覚えていない。

だけど、だいたい番宣のために出た番組は、その回だけ見て二度とレギュラー放送を見ることはないのに

3年経った今日の今日まで毎週録画設定で見続けているというととは、初めて見たあの回と相当なシンクロ率を果たせ、「細胞レベルで毎週録画に設定した」のだと思う。

 

 「久保みねヒャダこじらせナイト」 の何がいいか、なんて今まで考えたこともなかった。「好きなことに理由はいらない、そうさNo Reason」。それくらい当たり前の存在としか思っていなかった。

 

でも、今、正直こんなエントリを挙げる機会なんて全く望んでなかったけど、

どうしても文字にしたい、しなきゃいけない、と思ったからとにかく思いのままに書くことにする。

 

私はこの番組にすごく救われた。

 

久保さん・能町さん・ヒャダインさんは、それぞれの分野で成功し地位を築いたすごい方。一視聴者の私から見たら雲の上、雲の上どころか大気圏を飛び越え銀河レベルで遠い遠い存在の人。なのに「こじらせナイト」の中では「テレビの中の人」と「視聴者」

の間に、間というか「U」 【テレビU視聴者】の 絶妙な位置にいてくださる。

 

「若者がテレビを見なくなった」という言葉に新鮮味すら感じなくなった今。

テレビがネットをさんざん敵視しておいて、ここにきて(雑に)アプローチをとり始めた今。

「こじらせナイト」ははじめから【テレビ・ネット・テレビの中の人・視聴者】すべての人を包括する【U】にいる。

 

ネット上でちょっと話題になった出来事について、特に誰かと話すこともなく、一人心の中(またはTwitter)でツッコミを入れることが多々あった。そんなことを話す相手がいない自分・人に話せないようなことに時間を費やす自分を情けなく思い、バカげていると思ったことがあった。あるとき、たまたま久保みねヒャダでその話題が取り上げられ、3人が様々な観点で楽しそうに話していた。ゴールがあるわけじゃないし、ゴールインさせる必要がある話題でもない。オチがどんなだったか覚えてないけど、それでも3人の会話を見て心がふわーっと軽くなったことだけは覚えている。

 

「テレビに出てるすごい人も、私みたいにくだらないこと考えて楽しめるんだ」と言葉は失礼だが、嬉しかった。

 

「体育への恨みつらみ川柳」も「予想を下回る絶妙な料理」も「1snt(シニタ)」「脳内BGM」「職場ピエロ」も。

日常生活でふと思いついたものの、自ら「くだらない」と切り捨て、心の中でお蔵入りさせたアイデアや感情はいくつもあった。でも視聴者投稿やお三方の作品に触れ「あ、こういうこと考えるの私だけじゃなかったんだ!」とホっとした。ホッとしたし、自分の(今までくだらないと思っていた)心に移り行くあれこれに【愛おしさ】さえ覚えた。

 

社会不適合者の上にジャニヲタという救いようのない自分に嫌気が差して、せめて少しは普通の人間に近づけるようになろうと思って「ジャニーズが好き」という気持ちを捨てようかと思ったことがあった。そんなとき、好きなものを通して熱く楽しい会話を繰り広げるお3方の姿が私に【好きなものを好きといえる強さ】の大切さを教えてくれた。

同時に 何かを「好き」だとか「こじらせてる」という感情が、時に視野を広げてくれることも教えてくれた。【何かに夢中になってる自分】を肯定させてくれた。

 

「久保みねヒャダこじらせナイト」が取り上げる話題は、ほとんどが『誰かの半径5メートルの世界』のものだ。

だけど、「誰かと誰かの半径5メートル」がテレビを通して近づき・つながり、『半径5メートル』でありつつ実は見えないところで『日本列島規模』の事象になっていたりもする。

「こじらせナイト」は「半径5メートル」をネガティブに捉えず、むしろ自分の『半径5メートルの世界』を愛おしさを感じさせてくれる番組なのだ。

そして「自分の世界の半径」は、「こじらせ」というエッセンスのおかげで時に広くなったりもする。

 

「自分を好きになれた」とかそんな大げさなこっぱずかしいことは言えないけど。

「今の社会に適合できてない自分」は情けないけど、「自分が今までにしてきたこと」「自分の考え方」を 認めてあげられるようになったのは、間違いなくこじらせナイトのおかげだ。

 

 

「私みたいに人生に行き詰ってる人に見てほしい」なんて宣伝をするつもりは一切ない(それに、これは番宣コピーとしては0点どころかマイナスだと思う)。

 

「私ったら・・・ほんと、もう」と思ったとき、「ま、人生そんなに気張らなくていいや。」とほっと一息できる、そんなお茶屋さんみたいな場所、それが私にとっての「久保みねヒャダこじらせナイト」だ。

 

「物事には必ず終わりがある」そんなことはわかってはいるけれど

ピリオドを打つのは今じゃない。

むしろ、これからの時代、こういう番組が世の中には必要だと思う。

番組にマンネリ化も質の低下も感じていない、今、なぜ「終了」という2文字が偉い人の頭に浮かんだのかまったくも理解ができない。

 

2週遅れの東海テレビ圏民がいうのもなんだけど、10月からも今までどおりこじらせナイトがある1週間を過ごしたい

私も番組ステッカーほしい。投稿できてないネタがたくさんあるから、私のネタストックが切れるまでちょっと待っててほしい。       

千葉くんとヒャダインさんの2丁目芝居だって、こじらせ旅だってもっともっと観たい。

まだまだ観たいものが多すぎて、不完全燃焼にもほどがあって、「太陽フレア」どころか「こじらせフレア」でどうにかなってしまいそうだ。

 

つまらぬことをつらつらと書きましたが、

最後に何の権力もない一視聴者のたわごとでしかないが、どこかの誰かにこのエントリが届くことを願っています。